[ Isuzu Commercial Truck of America, Inc. ]
機械カンパニー
奥寺俊夫×佐藤範和

2013 年。いすゞ自動車と伊藤忠の合弁会社である Isuzu Commercial Truck of America, Inc. は今、大きな期待に包まれている。景気上昇に、円相場の回復。北米における史上最高益が現実のものになろうとしているのだ。ただ、ここにいたるまでの道のりは決して簡単なものではなかった。世界同時不況は株価の暴落、緊縮財政、ダウンサイジングを巻き起こし、世界中の企業を倒産に追いやった。日本企業も例外ではない。苛烈な生存競争が始まったのだ。しかし、その後合弁会社は奇跡の生還を果たす。企業改革に挑み、V 字回復を実現した立役者のふたりに話を聞いた。

奥寺 俊夫
機械カンパニー
いすゞビジネス部
いすゞ第二課
課長

佐藤 範和
機械カンパニー
いすゞビジネス部
いすゞ第二課
営業

2008 年。佐藤はロサンゼルスに降り立った。28 歳。同年代で駐在経験のある人間は少ない。正直、アメリカ行きを打診されたときは興奮した。いすゞの米国小型トラック市場におけるシェアは約 80 %。「当時、本社からは北米において拡大戦略をとると聞いていました。その成功を推進するのが私の役目。若さと行動力を求められていました」。初の渡米でもある。期待に胸を膨らませていた。ただ、反対に空港に迎えに来た奥寺は神妙な面持ちだった。佐藤とは異なる覚悟を持っていたのだ。「当時は世界同時不況の真っ只中。佐藤の駐在を検討していたときとは状況が一変していました。本人には酷でしたが、遊ばせている余裕はなかったんです」。景気悪化に対応すべく、大規模リストラを含め緊縮運営に舵を切ろうとした直後でもあった。合弁会社の CFO でもある奥寺は車のなかで包み隠さずに現状を話す。佐藤も真摯に受け止めた。「ダウンサイジングが急務となるなかでの増員。新人だとか、若いからとか、そんな悠長なことは言ってられない。厳しい局面にもきっと遭遇する。正直、とんでもないところに来たなと思いました」。佐藤も覚悟を決めた。自分の価値を示さなければ生き抜いてはいけない。ホテルに向かう車中、初めてのアメリカはやけに静かだった。

佐藤が赴任したとき、合弁会社に漂う緊迫感は尋常なものではなかった。未曾有の不景気に、歴史に残る超円高。2006 年をピークに合弁会社の販売台数は下がり続け、2009 年頭にはついに 7,000 台を割った。3 年間で 4 分の 1 にまで下落したのである。まさにジェットコースターのようだった。在庫も膨れ上がり、明日の資金繰りでさえ苦しい。ときには現金を捻出するために、赤字覚悟でトラックを販売。部品代の支払いに充てたこともある。なにかおかしい。佐藤は財務という観点からつぶさに会社の実情を分析。奥寺とともに原因について議論した。「合弁会社は、好景気時代に合わせた市場シェア獲得優先の仕組みになっていて、結果的に利益を軽視するような構造になっていたんです」。以前は拡大戦略だった。シェアを伸ばすには、販売実績がいる。営業スタッフは台数によって報酬が評価され、ときには新規顧客を獲得するために利益度外視の割引が行われることもあった。間違ってはいない。ただ、時代が違う。迅速かつ抜本的に組織構造を変える必要があった。「他にも手を加えなければならないところはたくさんありましたが、まず最初に目をつけたのは営業・販売の仕組みづくりでした」。ふたりの戦いが幕を開けた瞬間だった。

奥寺と佐藤が手始めに注力したのは割引きの承認制度だった。現状では現場に機動力を持たせるため営業の判断で幾らでも価格を左右することができ、本来は利益率 10 % の車が 1 % で取引されることもあった。これでは一台あたりの適正利益を回収するのに、10 台は売らなければならない。販売経費がかさめば一瞬で赤字に転落である。「統括する立場にいる我々は個々のお客様の状況が見えづらいため、完全に現場の裁量権をなくすつもりはありませんでした。ただ、報告義務を設けることで利益の二文字を営業サイドの頭に植え付けたかった」。しかし、抵抗がなかったわけではない。今までのやり方、考え方が大きく変わるのだ。全社員がもう一度、価値観、存在意義を問い直すことを求められた。この間、奥寺も CFO としての責務を果たしている。「いすゞ出身の社長、アメリカ人の副社長とも昼夜を問わず議論。佐藤が分析した膨大なデータをもとに、利益に対する意識改革はもちろん、営業研修の見直しなど具体的な施策まで膝と膝を付き合わせて話しました」。その結果、合弁会社は評価制度の改正にも着手。ボーナスなども販売台数ではなく営業利益に結びつくように変更したのだ。次第に会社の空気も変わり始める。果てしなく続く緊張感のなかで、いすゞ社員、伊藤忠社員、アメリカ人スタッフの中により強固な結束が生まれつつあった。
2009 年度末、大きな転換期が訪れる。合弁会社が厳しい経営環境にも拘らず黒字決算を達成したのだ。自慢できるような利益は出なかった。それでも大きな壁を突破したのだ。全員が一丸となって捻出した黒字に、過酷な状況下を生き抜いてきたスタッフたちはわきにわいた。黒字はその翌年も、さらに翌年も続いた。すでに社内の誰もが佐藤のことを認めていた。キャッシュが足りなくなったとき自分の給与分を使ってくれていいと申し出た社員がいる程であった。折れそうになる佐藤の両足を支えていたのは、紛れもなくアメリカのスタッフたちだった。「どんな危機的状況でも彼らはユーモアを言い、仕事を楽しもうとする。いつも勇気をもらっていました」。奥寺は当時を振り返って、佐藤の成長について語ってくれた。「プロとしての責任感が生まれていたのだと思います。他人のせいにするのをやめて、自ら能動的に周囲を変える姿勢になっていました」。奥寺は 2011 年に、佐藤は 2013 年に帰国。仲間たちとの交流は現在も続いていると言う。「いすゞも伊藤忠もない。同じ釜の飯を食べる仲間として全員がひとつになっていた。私たちにとってまさに戦友と呼ぶべき存在でした」。現在、アメリカ市場はかつての活気を取り戻しつつある。円相場も安定的だ。そしてなにより、ふたりが必死に築き上げてきた強固な経営基盤がある。今、Isuzu Commercial Truck of America, Inc. は大きな期待感を胸に、明日へと走りだしている。
